翻訳の極意を垣間見る

洋書は原書で読む

ポリシーというほどでもありませんが、基本的にそうしてきました。もちろん英語に限ってのことです。それが、昨年はめずらしく、翻訳書を買って読もうという気持ちになりました。

きっかけは、カズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞のニュースです。

カズオ・イシグロの作品は、過去に一つだけ原書を読んだことがあります。

The Remains of the Day - 日の名残り

出版されたのは1989年ですが、買ったのはそれから約10年後のこと。特に英文学に傾倒しているわけでもなく、カズオ・イシグロという小説家も知りませんでした。たまたま立ち寄った本屋さんで、The Remains of the Day というタイトルの美しさに魅かれて、衝動的に買った記憶があります。

私は、これは良さそうだと思ったら、自分のインスピレーションを信じるタイプです。当てにならないこともしばしばですが、この本は期待を裏切りませんでした。

その前に The Remains of the Day には何故、The Remains と The が付くのでしょう?
(またもや定冠詞の不思議)

これはおそらく特定できるものだからだと思います。つまり、the day は24時間あるわけですが、その中の残りの数時間を特定しているのです。もちろん、この場合は比喩的にも使われていて、主人公の一生が the day でその晩年を the remains と表現しているものと思います。the rest of… の使い方と同様だと考えられます。このように初出でありながら、名詞に the が付くケースが多々あります。

The Remains of the Day は買ってから2度読みました。1回目は辞書を引かずに通して読み、2回目は未知の単語や言い回しを確認しながら読み進めました。格調の高い英文でありながら読みやすく、その文体の美しさに魅了されました。小説としての素晴らしさは、多くの方が書かれていますので、今回はそこから離れて違う視点から書いてみたいと思います。

カズオ・イシグロのノーベル賞のニュースで湧いていた頃、テレビで一般の人が感想を求められているのを見ました。その中である方が「「日の名残り」の翻訳書が素晴らしかったです。」とおっしゃっていました。

それを聞いて、そんなに素晴らしい訳であれば読んでみたいという気持ちになりました。今まで翻訳されたものを読もうという気持ちになったことはありませんでした。文芸翻訳にさほど興味がないのと、原書で理解できれば日本語訳を読む必要はないと思っていたからです。

早速、翻訳書「日の名残り」を取り寄せて読みました。一気に読みました。

読んだあとの感想です。

まず、日本語の美しさに感銘を受けました。原書の良さを最大限に引き出した言葉の選択、それはカズオ・イシグロが日本語で書くならこう書くでしょうと思えるほどの精度を感じました。すでに原書を読んでいたのでそう思えたのだと思います。翻訳された土屋政雄氏のことは、それまで存じ上げませんでしたが、文芸翻訳の世界では一流の翻訳家なのでしょう。英語の堪能さだけではこういった作品は翻訳できないのは容易に想像がつきます。歴史への精通と、何よりも圧倒的な日本語能力がなければ無理です。

土屋氏の翻訳を読み進めていく中で、大変興味深い箇所がありました。昨年から今に至るまで、毎日のようにニュースで出てくる言葉が使われていたのです。

その言葉とは「忖度」です。

これを目にしたときはっとしました。恥ずかしながら、私は「忖度」という言葉を、昨年の財務省がらみのニュースで出てくるまで知りませんでした。しかし、圧倒的な日本語のボキャブラリーをもつ方にとって、「忖度」なぞ日常語のレベルなのでしょうね。私は自分の日本語のレベルの低さを、真面目に嘆かずにはいられません。

★広辞苑における「忖度」の定義
(「忖」も「度」も、はかる意)他人の心中をおしはかること。推察。「相手の気持ちを忖度する」


昨今、政治の場面でよく聞く「忖度」は、「上役などの意向を推し量る」の意味であることは多くの方がご存じのことと思います。調べるとこの使い方は、2000年以降に出て来たようです。

さて、「日の名残り」の中で、「忖度」が使われている箇所は P256 にあります。ミス・ケントンに明日、会うことになっているスティーブンスが、ミス・ケントンはダーリントン・ホールに対して、強い郷愁を覚えているのではないかと感じていることを述べ、そのあと以下が続きます。

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しかし、これもまた憶測、憶測、憶測にすぎません。明日になれば本人に確かめられることです。
ミス・ケントンがいま何を望んでいるかなど、勝手にあれこれ忖度していてもはじまりますまい。

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ここで使われている「忖度」は広辞苑の定義通りの意味でしょう。私は、ここで好奇心がわきました。土屋氏はカズオ・イシグロが書いたどの部分を「忖度」と訳されたのだろうと。私は手持ちの原書をチェックしました。オーソドックスな英単語(動詞)でした。さて、それは何だったでしょうか。

上記の翻訳に該当する英語は以下の通りでした。
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But then again, what is the purpose in endlessly speculating as to Miss Kenton’s
present wishes when I will be able to ascertain these from her own person tomorrow?

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土屋氏が「忖度」と訳出されたのは、speculating の箇所です。

★ジーニアスを調べると speculate の2つ目の項目にあたります。引用します。
 [SV about [as to, on] O](正式)・・・について熟考する、思いを凝らす;(あれこれと)推測する(guess)

上の英文を直訳してみます。
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しかし、再度になりますが、ミス・ケントンの現在の望みを際限なく推測することに、何の意味が
ありましょう。明日になれば本人に会って確かめることができるというのに。

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この面白くも何ともない直訳が、土屋氏の手によるとこうなります。
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しかし、これもまた憶測、憶測、憶測にすぎません。明日になれば本人に確かめられることです。
ミス・ケントンがいま何を望んでいるかなど、勝手にあれこれ忖度していてもはじまりますまい。

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「憶測、憶測、憶測にすぎません」にあたる直接の言葉はありませんが、何故このような訳が可能になるのか。それは、then again と endlessly があるからだと思います。すでに憶測を表現した箇所が前述されているから then again とあります。そしてこのように際限なく憶測しても...という思いが endlessly に凝縮されています。スティーブンスのしつこい憶測を受けて、「憶測、憶測、憶測」と強調した書き方になっているのではと思いました。

それにしても、普通の翻訳者にこういう発想の転換ができるのでしょうか。文芸翻訳者の方々が、どういう思考回路で訳をされているのか、私には全く見当が付きません。しかし、カズオ・イシグロという類まれなる小説家が全幅の信頼を寄せる翻訳家の訳文に接し、私は文芸翻訳というものを初めて垣間見た気がします。感性も一流でなければ、かつ原作者と高いレベルで感性が一致しなければ、文芸翻訳など出来ないような気がしています。

上記の箇所はほんの一例です。原書と翻訳書を読み比べて、他にも感嘆する訳がいくつもありました。引用が過ぎると問題かもしれませんので、もう一箇所だけ取り上げたいと思います。昨年の衆議院選挙でよく出てきた言葉です。

その言葉は「烏合の衆」。希望の党は「烏合の衆」と頻繁に揶揄されたことを、皆さんお覚えておられるでしょう。

「烏合の衆」が出てくる箇所です。ダーリントン卿が、イギリスの議会制民主主義を皮肉って話している場面です。
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民主主義は過ぎ去った時代のものだ。普通選挙にいつまでもこだわっていられるほど、いまの世界は
単純な場所ではない。烏合の衆が話し合って何になる。数年前までならそれでもよかったろう。
だが今日の世界で・・・・・・?

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★広辞苑における「烏合」の定義
烏の集まるように規律もなく統一もなく集まること。


原書では以下のように書かれてありました。
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Democracy is something for a bygone era. The world’s far too complicated a place now
for universal suffrage and such like. For endless members of parliament debating things
to a standstill. All fine a few years ago perhaps, but in today’s world?

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「烏合の衆」は、members of parliament (下院議員)を指しているようです。

直訳してみます。
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民主主義は過ぎ去った時代のものだ。普通選挙などと言うが、世界は今、複雑すぎる場所になっている。
下院議員の連中は、延々と議論しても行き詰まるばかりだ。数年前ならおそらく万事うまくいっただろうが、
今日の世界で?

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注)正確には直訳ではありません。For endless members の For はその前の for universal suffrage の for と同じものだと思います。直訳すると、この for は「~にとって」の意味になると思います。

さて、土屋氏は「下院議員の連中」を何故「烏合の衆」と訳されたのでしょう。かなり大胆な訳だと思います。しかし、その訳に至る十分な背景が読み取れます。この記述の前に、イギリスの制度がいかに時代遅れかについて語られています。また「現在の議会政治は、母親の会が戦争の指揮をとるようなものだ」という言葉に代表されるイギリスの議会政治の無能さが語られています。突き詰めると議員の無能さに行き当たります。

「烏合の衆」だけ切り取ると「下院議員」のことだとはわかりにくいですが、そこに至るまでの伏線がはられているので、読者には違和感を感じさせず「議会の連中のことを指しているんだな」とすっと頭に入ります。土屋氏の言葉の選択の見事さには驚くばかりです。

以上、長くなりましたが、初めて文芸翻訳に接し、大変勉強になりました。私は今、仕事の合間を縫って、The Remains of the Day の原書と翻訳書を最初から交互に読み進めています。比較しながら読むので時間がものすごくかかっていて、昨年からまだ3割程度しか進んでいませんが、自分にとって意味のあることだと思うので、最後までやり遂げたいです。

本来この記事は、昨年書く予定でした。今週、やっとまとまった時間がとれたのでアップできました。

読んで下さった皆さん、ありがとうございました。

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# by ladysatin | 2018-03-31 16:13 | 翻訳_Translation | Comments(31)