2015年 10月 03日
日英翻訳における発想の転換
つい最近のことですが、ある大手メーカーの取説のご担当者より、「至急翻訳してほしい文がある」と電話で依頼を受けました。午前10時のことです。
ご担当者曰く「今日の会議で、モニターの取扱いについての注意文を入れることになりました。2文だけなんですが、急ぎでお願いしたいんです。11時までにできますか?」
このような緊急の翻訳依頼は日常茶飯事です。そんな大した内容ではないだろうと思い、私は「承知しました。」とお返事しました。
その後メールで送付されてきた文がこれでした。
-------------------------------------------------------------
OLED特有の美しい映像をご覧いただくため、自動的に XXXX が動作しており、動作中はLEDが橙色点滅(取扱説明書のP32参照)します。この期間中は、画面を拭くような作業を避けるようにお願いします。
-------------------------------------------------------------
う~ん。これ結構難しいかも。タイムリミットは1時間です。
さて、これをどう料理しましょうか...。
以下は、私が翻訳するにあたり実際にとったアプローチです。翻訳の仕事に興味のある方に読んでいただけるとうれしいです。
まず、この文はテレビの取説に追加で入れる文言なので、その土台となる英文取説はあるのでしょう。しかし、私が訳したものではないので、その英文取説を私は見たことがありません。
実はこの世界では、ある翻訳者が訳したものに対して、他の翻訳者が書き加えるということが頻繁におこります。部分翻訳というものです。ということは、翻訳者によって言い回しが異なる場合が多々あるわけです。それは取説の品質という観点から言えば、当然のことながら望ましいことではありません。
それを回避するために、通常は、追加文言の挿入箇所にマーキング指示してある取説をPDFで送ってもらいます。そして翻訳者は、追加文言の前後の言い回しを確認し、自分ではない他の翻訳者の言い回しに合わせて翻訳をします。
例えば見出しで「画像を保存する」という文言を翻訳しなければならない場合、いくつかの書き方があります。動詞を原形にして Save the image もありだし、動名詞を使って Saving the image も考えられます。その場合、他のページに類似表現がないか探します。すると「画像を削除する」を訳したものであろう Deleting the image という見出しがすでにあったとしたら、Saving the image と訳さなくてはなりません。これが「他の翻訳者の言い回しに合わせる」ということです。
元に戻って、今回の依頼でも挿入箇所を指示したPDFを送ってもらおうと思いましたが、事情によりそれができませんでした。ならば仕方がありません。もらった日本文の情報のみから英文を作ります。
-------------------------------------------------------------
OLED特有の美しい映像をご覧いただくため、自動的に XXXX が動作しており、動作中はLEDが橙色点滅(取扱説明書のP32参照)します。この期間中は、画面を拭くような作業を避けるようにお願いします。
-------------------------------------------------------------
さて、この日本語の文章は2文からなります。しかし、ひとつ目の文を英文にすると長くなりすぎるようです。そこで、私はこれを2個に分けることにしました。すると、以下のように3個のパートで英文を作ることになります。
-------------------------------------------------------------
①OLED特有の美しい映像をご覧いただくため、自動的に XXXX が動作しています。
②動作中はLEDが橙色点滅(取扱説明書のP32参照)します。
③この期間中は、画面を拭くような作業を避けるようにお願いします。
-------------------------------------------------------------
ではいきます。
①OLED特有の美しい映像をご覧いただくため、自動的に XXXX が動作しています。
この日本語を読んだ瞬間、ちょっぴり「うっ」となりました。というのも最初の「美しい映像をご覧いただくため、自動的に XXXX が動作して」という文言に、違和感を覚えたからなんです。
日本語を言いかえると「XXXX が動作するのは美しい映像をご覧いただくためなのだ」となります。しかし、この論理は少しばかり飛躍しすぎではないかと私は思ったのです。XXXX というのは機能なのですが、美しい映像には欠かせないものです。もちろん最終的には「美しい映像をご覧いただく」ことが目的ですが、装置に備わっているさまざまな機能というのは、まず直接的な目的があります。それを端折ることはできないと考えました。
そこで、「XXXX が動作するのは何のためか?」と考えたときに、「美しい映像を作るため」が直接の目的だと私は解釈しました。それが達成できてから初めて、お客様に美しい映像をご覧いただけるということです。
日英翻訳をやり始めてわかったことなのですが、原文を作る人(この場合はこの日本語を書いた人)の中には、因果関係を深く考えずに文章を書く人がいます。それに気づかずに日本語に書かれた字面に忠実に訳した場合、おかしな英文になることもしばしばです。
そうならないためには、「この文は何が言いたいのか」をまず翻訳者は見極めなくてはなりません。読むのはネィティブのお客様です。ネィティブのお客様が読んで違和感のない文にする必要があります。そこで私はこう書きました。
●The XXXX function automatically operates to produce OLED-specific beautiful images.
「ご覧いただくため」の文言はここには反映されていません。しかし「to produce 作るため」とすることで、結果として「ご覧いただくため」の意味を入れることができました。
ところで produce を deliver にしようかとも考えました。produce は「作る」という意味ですが、deliver は「送る、配信する」という意味があります。悩んだ末に produce にしたのですが、deliver でもよかったかなとも思っています。
②動作中はLEDが橙色点滅(取扱説明書のP32参照)します。
この日本語は問題ありません。素直に訳します。
●During operation, the LED blinks orange (see Operating Instructions, page 32).
「点滅する」をここでは blink で表現しましたが、flash を使うこともあります。blink の方が多く使われているようです。
③この期間中は、画面を拭くような作業を避けるようにお願いします。
この日本語も要注意です。「画面を拭くような作業を避ける」の意味はわかりますが、これを英語にするのはかなり難しいですね。
まず「作業」をどう訳しましょう。operation あたりが一般用語ですが、ここでは大げさすぎる表現です。work を使うわけにもいきません。ということで、ここでも「この文は何が言いたいのか」を考えてみました。
「画面を拭くような作業を避ける」のは何のためなんでしょうか?
「画面を拭く」という行為は「画面にストレスを与える」ことです。それをやっちゃうと XXXX 機能が正常に動作しなくなる可能性があるんだと読めます。もっと具体的には「ストレスを与える」はこの場合「圧力をかける」という意味になります。画面を拭くと圧力がかかりますよね。
このように考えると③の文は「この期間中は、画面を拭くなどをして画面に圧力をかけることを避けてください。」とパラフレーズできます。そこで私はこう書きました。
●Avoid putting pressure on the screen by wiping its surface, etc.
「この期間中は」のところは、前文の「動作中は」からの流れを受けているところなので、くどさを回避するため訳しませんでした。
まとめるとこのようになりました。
-------------------------------------------------------------
OLED特有の美しい映像をご覧いただくため、自動的にXXXX が動作しており、動作中はLEDが橙色点滅(取扱説明書のP32参照)します。この期間中は、画面を拭くような作業を避けるようにお願いします。
The XXXX function automatically operates to produce OLED-specific beautiful images. During operation, the LED blinks orange (see Operating Instructions, page 32). Avoid putting pressure on the screen by wiping its surface, etc.
-------------------------------------------------------------
日本語から英語に翻訳するときに、日本語の文字の情報が網羅されているかどうかということ - それは、大学入試の英作文では必須です。なので、今回の翻訳を大学入試で採点されたら減点されると思います。「ご覧いただくため」が訳されていない、また③では Avoid putting pressure に相当する文言は原文の中にないということですね。
しかし、翻訳は英作文ではありません。言わんとする本質を読む人に伝えることが翻訳の目的です。ここは大学入試の英作文とは全く異なる点です。
翻訳する際に日本語をそのまま英語にできないと思ったら、まず、この日本語は一体何が言いたい文章なのかをよく考えてみます。すると、別のアプローチが見えてきます。表に見えている日本語に執着しているとそれが見えてきません。頭を柔らかくするってとても大切なことだと思います。
その一方で、このように自分は解釈してこの英文を作ったが、拡大解釈ではないのだろうかという客観的な視点も必要です。これは翻訳者にどこまで裁量が認められるのかということに関係します。
最後に、翻訳者として私が常に大切にしていることがあります。
それは「なぜこのように訳したのか」と問われたときに、その理由を明確に答えることができるようにしておくということです。これは顧客との信頼関係を築く上で、非常に重要なことだと思っています。自分が翻訳した言葉に責任を持つということでもあります。
今日は、日英翻訳で発想を転換することについて書きました。
ではまた。
発想の転換をして「ご覧いただく」を「produce」や「deliver」に変換する方法など、今回も大変勉強になりました。これからも更新楽しみに待っています。
初めまして。コメントをありがとうございます。
いつも読んでくださっていたとは大変うれしく存じます。
私の記事は語法や英文法に関するものが多いのですが、今回は久しぶりに日英翻訳について書きたいと思いました。発想の転換と言葉で言うのは簡単なのですが、どうしても日本語に振り回されてしまいがちです。翻訳の答えは一つとは限らないのですが、こんなアプローチもできますねと提案できることがあれば、今後もやっていきたいです。
今後ともよろしくお願いいたします。
くださったコメントはご心配いただいてのご忠告だと思います。その点は感謝いたします。
懸念されている問題点についてですが、通訳の世界、翻訳の世界にかかわらずどのような業種であっても付いて回ることです。故に業種間での根本的な違いはないという認識でおります。ただ、貴殿と私の間には解釈に大きな隔たりがあるようです。この点についての私の見解は、別途記事を書かかせていただくことにします。
誤解されているところがあるように思いますので、ここでは一点のみ申し上げておきます。私は翻訳のプロフェッショナルですが、この仕事に従事する前は、一般企業にてそれ相当の年数の経験を積んできております。従って、こういったブログを書くにあたっては、内容にも細心の注意を払っているということをご理解ください。
今回の記事の目的は、取説で出てくる一般的な日本語の文言から、どのように英文を組み立てていくかの例示です。どうすれば読む方々に理解しやすく説明できるだろうかと考えつつ、時間をかけて書いた記事です。
言及されている方々のブログには多くの問題点があるということですが、そのようなブログと同一視されるのは心外です。また、軽率に材料を選んで書いていると思われているとすれば、大変残念なことだと思った次第です。
また、先日歌詞の翻訳について僭越な事をしてしまいましたが、私は英語の専門家でもなく、得意な訳でもありません、ただ、シンガーソングライターの活動もしていて、翻訳をするのは自分が歌う為にだけしております。その時に、一番大事にしている事は、ladysatinさんが、本欄で取り説の翻訳に用いた方法と同じなんです。文法的な正確さと言うよりも、作者が意図して伝えたかった事を、意味的に、映像的に理解して、それを聞き手の心にどう伝えるか?しかも、音楽ですから、ちゃんと歌えなければ意味がありません。それを、自分で歌いながら、少しずつ、詩の世界が鮮やかに見えるように訳しつつ、日本語の言い回しとして、美しく韻を踏みながら表現出来るかと言う事に挑戦した見たのです。僕にしてみればladysatinさんに評価して頂いた事がとても嬉しいのです、まるで、先生に褒められた様な気分です。
しかし、プロとして翻訳のお仕事をされているladysatinの姿勢は素晴らしい!
こちらの記事にもコメントをいただきありがとうございます。
そのようにお褒めいただき大変恐縮いたします。
家電メーカーのデザイナーをされていたのですね。私も家電メーカーのお仕事をさせていただくことが多いので、MORROW さんにとても親近感をもちます。製品を作る側の方々は様々な思いをもっておられると思います。外観の美しさ、ユーザーが実際に手にとったときの使用感や耐久性など、種々の条件をクリアした上で市場に出るのでしょう。
私の仕事は製品を作った方の思いを汲み取り、それを言葉にする仕事になります。元となる日本語はあるわけですが、右から左に翻訳するのでなく、言いたいことの本質をユーザーに伝えなくてはなりません。英作文と翻訳の違いはそこだと思っております。この仕事をしている限りずっと修行していく所存です。
MORROW さんはシンガーソングライターの活動もされているとのこと。The Water Is Wide の深い洞察力はそういった背景からだったのですね。
温かなコメントをいただきとてもうれしかったです。
本当にありがとうございました。
翻訳のお仕事、基本コミニュケーションの手段ですよね。
ならば、製品のデザインも同じです、その製品の機能や役割をしっかり伝える。
その上で、より美しく、魅力的な答を提示する仕事です。
特にあらゆる商品が、単に物理的な機能に留まらず、情報や経験と言うものまで包括する、
新たな価値を提供するようになっていますから、コミニュケーションの手段としての
デザインと言う意味合いも大きいですし、それを見えない価値や役割をビジブルなカタチで
モノ作りのプロセスの中から取り出す事が必要になります。
その、作業と言うのは、言わばカタチで表現する翻訳にようなものです。
製品開発に関わる多様な部門が、同じ日本語を使いながら違うビジョンを描く!
それを、見えるカタチに統合し、具現化しながら、イメージの齟齬を無くして行く。
最後は、店頭で商品自身に語らせるデザインが求められる訳です。
それは、音楽でも同じ、また、楽器でも同じです。
友人達から、ギターのチューンナップも頼まれますが、良い音にする基本は。
如何に伝達のロスを無くするのか?と言う課題です。
音に不満のあるギターの場合、弦楽器ですから、まず弦の接点の部分をチェックします。
そうすると、そこに未整備であったり、伝達ロスがあったりします。
音が良く鳴るか?の問いに対しては、そう言う部分をチェックして改善点があれば、
「良くなるよ」と答えます。そして、後は具体的改善を実行する際のスキルがあれば、
必ず楽器のポテンシャルは向上します、ビックリするほど変わります。
どうでしょう?的確な翻訳作業と似ていませんか?
僕が英語について専門家ではなくても ladysatin さんの仕事のプロセスを見れば、
如何にちゃんとした仕事をしているのかが判ります。
それが、言葉か?ビジュアルか?音か?あるいはそれを融合したものか?
専門分野が少し違うだけだと思います。
そう言う根拠で、 ladysatin さんのお仕事の姿勢を見て、素晴らしいと思った訳です。
翻訳、デザイナーという職種は違えど、結果に至るまでのプロセスは同じですね。
日々の業務に埋没していると忘れそうになるような大切なことを、教えてくださいました。
MORROW さんのコメントを拝読して、改めて身の引き締まる思いです。