良い翻訳とは - Steve Jobs 氏のスピーチから

今日は、翻訳をする際に心に留めておきたいと思っていることを、少しだけ書いてみたいと思います。

以前、こういう質問をされた方がいました。

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Steve Jobs 氏のスタンフォード大学でのスピーチの一節です。
★The only way to do great work is to love what you do.

この部分について、プロの翻訳家が「素晴らしい仕事をするには、真に好きなことをやるしかない。」と訳していました。私は、「素晴らしい仕事をするには、自分のやることを好きになるしかない」と訳しました。

私の訳は「今やっていることが嫌いでも、好きになることで素晴らしい仕事をできる」ともとれ、両者はかなり意味が違ってくると思うのです。

でもプロの翻訳家のほうが正しいはずなので...後者の私の訳し方はおかしいのでしょうか?
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これについて皆さんはどう思われるでしょうか。
もう一度書きますね。

★The only way to do great work is to love what you do

●あるプロの翻訳者の訳
素晴らしい仕事をするには、真に好きなことをやるしかない。

●質問者の訳
素晴らしい仕事をするには、自分のやることを好きになるしかない

どちらの訳が正しいかは一目瞭然。
質問者の訳が正しいですね。

プロの訳が成立するには、英語の後半を逆にする必要があります。すなわち
★The only way to do great work is to do what you love.

love what you do と do what you love の違い
すなわち「あなたがやることを好きになる」と「あなたが好きなことをやる」の違いです。


ところで何故、プロの翻訳者がこんな基本的な英文の誤訳をしてしまったのか。

プロでももちろん間違うことはあるでしょう。目の錯覚でこのような訳になったのかもしれない。しかし、誤訳がそのまま納品されたということは、チェッカーがいなかったということではないかと思いました。日英であれ英日であれ、通常は翻訳者とは別の第三者がチェックし、誤訳の流出をくい止めます。このケースは、ポカミスを防げなかったという点で非常に残念なケースだと思いました。

私は、質問者の方に「プロの訳は構文の解釈に誤りがあり、あなたの訳が正しい。」と説明しました。Steve Jobs 氏のスピーチは You Tube で検索すると出てきます。そこで別の翻訳者が字幕において「偉大な仕事をする唯一の方法は、あなたのする仕事を愛することです。」と翻訳をされています。パーフェクトな訳と言えるでしょう。

しかし、質問者の方は、これに納得しつつも先だってのプロの翻訳者の訳も正しいのではないかという意見をもたれたのです。これには驚いたのですが、実はここには重要な問題が提起されていました。

それは「翻訳者の裁量がどこまで許されるのか」ということです。

さて、私の説明に対して質問者の方は次のように言われました。

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Steve Jobs の YouTube のスピーチを聞きました。
確かに私と同じように訳されていました。

でも、スピーチを聞くと "Keep looking. Don't settle." と Jobs は話しています。
だからやはり、大好きなことに出会えるまで探せというニュアンスもあるのだと思います。

プロの翻訳者の方は、全体のスピーチの意味からこの部分を訳されたのではないかと考えました。

どちらにしても(今の仕事を好きになるにしても、これから出会うまで探すにしても)、好きでなければいい仕事はできないということなのだと理解しました。
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これを読んで私が「①なるほどそういう考え方もある」と思ったか
それとも「②それはとんでもない解釈だ」と思ったかですが、私の考えは②でした。


英語を教えている人々は「全体の英文をよく読んで適切な訳をしなさい。」と言います。それはもちろん理にかなったことです。しかし、それは複数の訳が考えられるときに限ると思うのです。

以前、私はこのブログで You could be mine. の訳を試みました。この文は単純ではあるものの、一文のみ見ても正しい解釈はできないと思いました。could の意味の多様性を知る人ならばわかるでしょう。ゆえに全体の展開をくまなく読みこんで、最適な訳を探したのです。

しかし The only way to do great work is to love what you do. において複数の意味は考えられません。このような文は、ただ素直に文法規則にのっとり訳をするだけだと思います。

質問者が言うように、もし「プロの翻訳者の方が、全体のスピーチの意味からこの部分を訳した」のであるとすれば、それは翻訳者の推測が介在したことによって、本来の意味を逸脱した拡大解釈となるでしょう。

翻訳をする際において重要なことは、まずはさておき「直訳」してみることだと私は思っています。直訳してみて筋が通るかどうかをまずみます。そして、何となくぎこちないのではないかと思ったときに、文法・構文の規則を逸脱しない範囲で自分なりの訳を試みることをおすすめしたいです。

★The only way to do great work is to love what you do

この文を直訳すると「偉大な仕事をする唯一の方法は、あなたのする仕事を愛することです。」となります。字幕で翻訳されていた文です。この日本語は、直訳でありながらも Jobs 氏が言いたいことをズバリと言いきっていて、これ以上の飾りは不要と思われる訳だと思いませんか。

別の人は同じく字幕で「最高の仕事をするには、その仕事を愛しましょう。」と訳していました。この訳は、骨子は乱れてはいませんが、やや翻訳者の思惑が入った文です。訳文として許容できるかどうか、難しい判断を迫られるでしょう。

そこまで細かく考えなくても...と思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、プロとしてお金をもらって翻訳をし、それが世の中に出ている以上、プロの翻訳者には社会的責任が付いて回ります。このことは常に考えなくてはなりません。

Steve Jobs という人は普通の人ではありません。私は Jobs 氏のことは何も知らないし、興味も特にありません。しかし、この方が偉大な方であり、それゆえに言葉の一つ一つが大きな影響力をもっていることは知っています。

日本にもいるでしょう。英語はわからなくても Steve Jobs 氏の大ファンの方々が。その方々が Jobs氏の発言を聞くときに、介在させなくてはならないのが翻訳です。その方々が覚えているのは、Jobs 氏が言った英語のフレーズではなく、翻訳者が訳した日本語になります。それをずっと、心の中で記憶し続けるのですね。それは、彼や彼女の考え方や生き方までも左右するほどの影響力をもつでしょう。

そう考えたときに、プロの翻訳者は「翻訳を読む人の人生にまでかかわってしまっている」ということを考えなくてはならないと思うのです。翻訳者がすべきことは「ある言語で話された(書かれた)情報を、別の言語で正確に伝える」ということです。したがって、英文を正しく読む力と、それを正しい日本語で表現する力の両方が要求されます。このことを肝に銘じて、私も日々精進していかなくてはと思います。

今回取り上げた Jobs 氏のスピーチのことは、ずっと心にひっかかっていたことでした。

Thank you for reading.

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Steve Jobs' 2005 Stanford Commencement Address



Sometimes, life is gonna hit you in the head with a brick.
Don't lose faith.
I’m convinced that the only thing that kept me going was that I loved what I did.
You've got to find what you love.
And that is as true for work and as it is for your lovers.
Your work is gonna fill a large part of your life.
And the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work.
And the only way to do great work is to love what you do.
If you haven't found it yet, keep looking.
And, don't settle...


by ladysatin | 2013-12-18 22:46 | 日英 Translation | Comments(0)